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御由緒

丹生官省符神社の草創は古く、弘仁七年(816)弘法大師(空海)によって創建されたお社であります。
空海は、真言密教修法の道場の根本地を求めて東寺(京都)を出で立ち各地を行脚され途中大和国宇智郡に入られた時、一人の気高い猟師に出会い高野という山上の霊地のあることを教えられました。
猟師は従えていた白・黒二頭の犬を放たれ空海を高野山へと導かれました。此の処は実に天下無双の霊地であり、空海は、此の処を教えくださった猟師は、@神さまが姿を猟師に現しA化現狩場明神となり神託として一山を与え下さったものであるとB想念の内に感得されたのでした。その事を嵯峨天皇に上奏し、天皇は深く感銘され、高野山を空海に下賜されたのでした。
狩場明神の尊い導きにより開山することができた高野山金剛峯寺。仏教・真言密教の布教の基となった狩場明神との運命的な出会い。空海はその思いをC政所としてD慈尊院を開いたとき、参道中央正面上壇に丹生高野明神社(現丹生官省符神社)を創建奉祀され、諸天善神への祈願地としてこの地を天と神に通じる地、即ち神通寺の壇とし、慈氏寺の壇と併せて萬年山慈尊院と称されました。
空海によって創建鎮座爾来、御社号も慈尊院丹生高野明神社、丹生七社大明神、丹生神社、丹生官省符神社と変遷し、県内外を問わず尊崇を受けE官省符荘(荘園)の総社として栄えました。
F紀伊名所図絵(天保年間)では、数多くの御社殿等が立ち並び荘厳を極めていましたが明治維新後、神仏判然令(神仏分離令)等により多くの建物は取り除かれ、天文十年(1541=室町時代)に再建された本殿の内、三棟(国指定重要文化財)が往年の姿をとどめ今日に至っています。

@ 神さま(地主神)…高野御子大神(高野明神) 
  A 化現狩場明神…神さまが姿をかえてこの世に現れること。 
  B 想念の内に感得…心の目を開かれ感じとること。 
  C 政所…一山(高野山)の政務、庶務をつかさどる所。 
  D 慈尊院…神通寺の壇(明神の壇)と慈氏寺の壇(みろくの壇)を併せて萬年山慈尊院としました。 
  官省符荘とは、太政官と民部省から認可された荘園という意味で、国の干渉を受けない不入の特権と、国へ税金を納めることがいらない不輸祖の特権をもつ正式な荘園でした。 
  F 紀伊名所図絵(天保年間=江戸時代) 
紀伊名所図絵

御神徳と特質

「狩場明神の従えていた白・黒二頭の犬を放たれ空海を高野山へ導かれました」という伝説は、今も受け継ぎ語られています。
丹生官省符神社の神さまの使いである白・黒二頭の犬は、安産(子授け)祈願としてまた、導き(縁結び)の神さまとして尊崇され家内安全、試験合格、商売繁盛、交通安全、厄祓、厄除、病気平癒等生きるものすべてのお導きを下さる霊験あらたかなお社として知られています。

丹(に・たん・あか)
銅の製錬技術にはなくてはならないもので、古墳にみられる赤土は、魔除けやくすり(不老不死=長寿の妙薬=即身成仏の考え)、日の丸など契約を交わす証としても朱印は現在に伝わっています。

忌明清祓社
丹生官省符神社は古来より忌明清祓社として崇敬されています。
帰幽後五十一日、百一日をもって親族家族が当神社に参拝して御祈祷を受け御幣を賜る儀式で、神さまの御加護を戴く大変重要な神事です。

御祭神

本殿
第一殿    
丹生都比売大神  (丹生明神) 天照大御大神の御妹 
高野御子大神  (高野明神) 真言密教の守護神 丹生都比売大神の御子 導きの神
天照大御神  (天照大神) 日の神
第二殿    
大食都比売大神  (気比明神) 五穀酒造の神
誉田別大神  (八幡大神) 応神天皇に坐して武勇の神
天児屋根大神  (春日大神) 神事祭祀の神
第三殿    
市杵島比売大神  (嚴島明神) 福徳寿の神 多くの氏神社をお祀りしています。

境内社
招魂社
神宮遙拝所
高野山遙拝所

本殿は、平成16年(2004年)7月7日「紀伊山地の霊場と参詣道」として、世界遺産に登録されました。

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